恵比寿稽古場では短冊を使うことが多いのですが、今掛けているのは 肥後藩最期の藩主の御舎弟様 長岡護美(モリヨシ) 公 の 須磨浦の和歌です。

いまもなお ひえ鳥こえの 山おろし
吹ハ くれくる すまの浦浪

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須磨は風光明媚な桜の名所です。
古来 和歌に数多く詠まれています。
在原行平の松風・村雨姉妹との恋物語や
源氏物語12帖須磨の巻の舞台でもあります。

また、源平合戦一の谷の戦いで源義経が須磨の後背地の急崖を70騎を率いて駆け下る奇襲で平家に大勝し、源平合戦の帰趨を決めた「義経のひよどり落とし」 の場所です。

さてこの和歌の意味は
長岡護美 公 の背景を知らなければ分からないでしょう。

長岡護美 公は肥後細川藩10代藩主細川斉護 公の御子で、11代慶順 公、12代護久 公 の御舎弟様です。
子供の頃から元服後の16歳までの間、10万石格の喜連川家に養子に入られていました。のちに喜連川家から細川家に復籍し、細川の別姓である長岡を姓とし、長岡護美となられたのです。

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喜連川家は足利将軍家の後裔ですから、細川家にとっては本家筋です。足利氏はいうまでもなく源氏の棟梁家です。

そうした経歴の護美 公 は須磨という地に
源義経のひよどり落とし を強く意識されていたのでしょう。ひえ鳥とは ひよ鳥のことです。

だから、この和歌は「ひよどり越え」の枕詞に
「今もなお 」をつけているのでしょう。

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山おろしは山颪です。須磨は後背地が急崖で、六甲颪という山颪が吹き下ろします。つまり

六甲颪が源氏が平家に大勝した昔から今も変わらず吹いている須磨の海岸と詠まれたのでしょう。

くれ来る は 暮れ来る でしょう。
浪は夕波 なのです。

遠い源平合戦の世から変わらずひよどり越えを吹き抜け須間の浦に吹き下す山颪が夕波を立てている

と詠まれたのだと思います
 
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ところで、この和歌の署名 には肩書がありません。護美とだけ書かれています。

護美 公 は喜連川家にいた時代は紀氏(ノリウジ)と名乗られ、また維新以降は正三位参与→肥後藩大参事→男爵→子爵となられており、官位があります。
無位無官の護美 と名乗らていたのは喜連川家から細川家に戻られた1854年から明治を迎えた1868年までの間です。つまりこの短冊は1854〜1868の間に詠まれた和歌だとわかります。
おそらく文久元年1861年〜維新1868年まで藩主の名代として京都に出て尊皇派として活躍された7年のうちに詠まれたのでしょう。

短冊掛は熊本の象嵌作家 永代正一 氏の肥後象嵌です。


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茶花は 野々市椿、翁草、姫空木です。

今日の旅箪笥の点前は中板を、上板に上げる
要領を稽古しました。点前に先立ち水指は引き出さず、建水を進めた手で中板を上板に上げてしまいます。
最後は 拝見を請われたら、まず中板を戻してから柄杓を上板に掛けます。

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こちらが基本的な使い方。中板は上げずに、水指を手前に引き出して使います。

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